草木ダムをあとにして車で13kmほど移動。およそ20分ほどで「足尾銅山観光」に到着しました。
こちらがエントランス。新型コロナウイルス感染拡大防止策として、ここで名前や住所、連絡先等を記入します。
無事にエントランスを通過。
続いて、こちらの発券所で入坑券を購入します。大人830円、ワンコは無料。ちなみに駐車場も無料です。
本来ならば発券所の奥にある新ステーションからトロッコ電車に乗るのですが、新型コロナの影響で閉鎖中となっていました。
線路に沿って坂を下りていき、旧ステーションへ向かって歩きます。
こちらが旧ステーション。
すでに他の観光客は乗っていて、我が家が乗るのを待っていたようだったので、急いで乗り込みました。
ドタバタしながらトロッコ電車が出発。
1分とかからずに坑内入口が見えてきます。
坑内に入ってもクロエは怖がりません。
坑内のホームに到着。ここからは順路に沿って進みます。ワンコも歩くことができますが、坑内は常に水が染み出していて地面が濡れているので、気になる人は抱っこした方がいいかもしれません。
ここからは時代ごとに当時の坑内作業の様子を見学していきます。まずは江戸時代。
1610年(慶長15年)に2人の農民によって発見された足尾銅山は、後に江戸幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されました。この時代はまだすべてが手作業でしたが、鉱石を掘る人、鉱石を運ぶ人、坑内の水をくみ出す人など、役割分担がなされていたそうで、ピーク時には年間1,200トンもの銅を産出していたとのことです。
金づちとノミで鉱石を掘るのは大変だったでしょうね。
それにしても人形がリアルです。
つづいて、明治・大正時代。
明治の初め頃には銅の産出量が落ち込んでいた足尾銅山でしたが、古河市兵衛によって民営化され、最新の技術や設備が導入されたことにより、新たな鉱脈が次々と発見され、やがて国内の銅産出量の40%以上を占める銅山へと成長しました。
その一方で、山の伐採による渡良瀬川の氾濫や、製錬工場から排出される煙や廃棄物が大気汚染や水質・土壌汚染を引き起こし、周辺地域に多大な公害問題を引き起こすようになってしまいました。これがいわゆる「足尾銅山鉱毒事件」で、田中正造が明治天皇へ直訴しようとしたことでも有名です。
だいぶ機械化が進み、江戸時代と違ってちゃんと作業服を着ています。
最後が昭和時代。
昭和時代に入ると、機械化や合理化がさらに進み、労働環境も少しずつ改善されましたが、銅の産出を優先したために公害問題は十分な対策が取られない状況が続きました。そのような状況の上、銅の産出量も次第に減少し、古河鉱業の経営状況も厳しくなったことから、1973年(昭和48年)2月28日に閉山となりました。
ちなみに、1973年の閉山までに掘られた坑道の総延長は1,234kmで、東京から博多までの距離に相当するそうです。
この時代になると、作業着も現代と変わりませんね。
クロエは現場監督として、作業員の様子を見守りました。
沈殿銅。地下水に含まれている硫酸銅を鉄と反応させ、銅だけを採取する方法とのこと。
坑道内の展示が終わり、ここからは資料館。
中央にあるのは足尾町のジオラマ。
銅インゴット(のべ棒)。これで20kgあるそうですが、実際に持ち上げようとするとかなり重いです。
貨車。いわゆるトロッコ。
クロエも現場監督として積荷を確認。
採掘された鉱石。ここから銅だけを取り出すのでしょうか。
坑道の壁に刻まれた文字。「昭和二十八年の下期に大河内組が施工」という意味?
田中正造さん。学校の教科書でも見たことのある写真ですね。
外へ出てきました。ここにもリアルな人形たち。
この人形。ママさんは千原ジュニアさんに似ていると言っていましたが、皆さんはどうでしょうか?
トロッコと寛永通宝の前で記念写真。
出口の方へ進むと、こんなダジャレで見送ってくれます。
この売店を通らないと外へ出られないようになっています。子供の頃はどこの観光地もこんな感じの売店ばかりだったなぁと思いながら、何も買わずに通過しました。ちなみに売店内もペット同伴可能。歩かせても構わないと言われました。
無事に外へ出ることができました。日光仮面がいたので一緒に記念写真。
最後にエントランス前で記念写真を撮りました。
チャッピーとクロエはトロッコ電車や坑道内で怖がることもなく、常に落ち着いて見学してくれました。つづいて少し公園を散歩することにしましょう。
足尾銅山観光
住所 栃木県日光市足尾町通洞9-2
電話番号 0288-93-3240(管理事務所)
営業時間 9:00~16:30
休館日 年中無休
※掲載時の情報のため、各自ホームページや電話にて最新情報を確認してください。
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